デザイナーズハウスという呼び方があります。
ではデザイナーとは何かというと明確な定義は見つかりませんね。
「今日から僕はデザイナーだ」といえばデザイナーです。
ところが建築においてのデザインという言葉は繊細な問題を含んでいます。
それは家の外見というものが街全体の共有物だということ。
ですから、いくら宣言すれば自称デザイナーになれるとはいえ、
安易に越えてはいけない線があるのではないでしょうか。
モダン建築もしかり、西洋様式もしかり、
そして「新和風」という定義自体が確立されていないのに一人歩きしている変なジャンルも
すべてその線を越える危険をはらんでいます。
問題の原点は、建築の教育において、今までにないものをつくることをデザインと呼ぶ、
あるいは機能美=すべて良いデザイン、などという誤解を正さないというあたりでしょうか。
内装は住み手が納得する限りはいわゆるデザイナーズでもいいと思います。
しかし「外はみんなのもの」という大原則を建築デザイナーは知る必要があります。
最近はまったく逆が流行のようで
「外はガルバのクールな感じで中は木の家」というギャップを勧める風潮があります。
たしかに金属やコンクリートは均一な工業製品を作るには適しています。
でも私たちが海外の風景や日本の古い町並みに感動するのは
工業製品ではなく職人さんが生き生きしていた証が
感じ取れているからと言えはしないでしょうか。
自然界には同じ色は一点ずつしかありませんし、直線は存在しません。
山も空もどの点をとっても同じ色であることはありませんし、刻々とかたちを変えていきます。
家も風景として考えれば同じ。
きっちりしすぎないことが、時を経てやさしいまなざしに変わっていくのです。
デジタルな外観が昨今の上越の家作りの流行になっています。
それを子供たちがあたりまえの風景としてしまうとき
日本の街並みはどうなってしまうのでしょう。
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