昨日アメリカから帰ってきまして
帰国第一号はなんといっても大統領就任式の報告にしようと思っていたのですが・・・
各方面に問題を提議していた、まことちゃんハウスに関して動きがあったようなので
ちょっと批判的な長文になりますが、街並みに関して書きたいと思います。
残念ながら日本人は自分の着る服が他人にどう映るかだとか
世間様の目というものを気にする割には
こと家の外観に関しては大変幼く、配慮が足りないと思っています。
ですからまことちゃんハウスが景観を壊したとか壊さないとか言う前に
もともと守るべき景観自体が無いのではないかというのが正直な感想です。
現代の住宅街の美しさという点では欧米に(この「欧米」という表現は嫌いなのですが)
豊かさの差をつけられているというのは、疑いようの無いことです。
だから皮肉なことに、あの強烈な建物が司法によって今のところ守られているのも
まあそんなもんかなと、うなずけるところがあります。
ただ心配なのは、あの建物を北欧風でかわいいとかオシャレだとかいう意見。
もし彼らの隣に紅白の縞々に顔を模した塔から光が点滅していても同じことが言えるのか?
私は赤のトーン自体はそれほど問題ではないと考えていますし
北欧に強い赤の建物が一般的にあるのも事実です。
問題は縞々という「異質性」にあるのではないでしょうか。
人類の歴史において家の外壁というものがあの手の縞模様であったことはごく稀です。
我々は無意識の中にも家のあるべき姿を共通のセンスとして持っていて
そこから離れることが嫌悪感を持たせるのではないかと思います。
しかしながら異質性を言えば、異質で自己主張の強い建物は街中にあふれています。
お叱りを受けるのを覚悟で書けば、威圧的な高床落雪住宅や
流行だけで建てられるガルバリウムの均一的な色合い、
また〇〇風・〇〇調の各種建材の深みの無さなども
歴史には登場しない性質のものですから、時に近隣に迷惑を掛けないわけではありません。
それらは、機能やセンス、好みというものを表現するものでありますが
近隣住民に嫌悪感を抱かせないということも一つの重要な機能ですから
落としどころが実に難しいのではないでしょうか。
ひとつの提案としては緩衝帯としての緑を設けることを強くお勧めします。
緑には日本の住宅の主流になってしまっている工業的なものを和らげる力があります。
住む箱自体は、情感よりも工業的で機能的なほうがいいというのでも
それは価値観ですからいいかもしれませんが
せめて緑の緩衝帯で情感を表現するというのが建て主の義務ではないでしょうか。
境界線から自分の家の間までコンクリートで埋めてしまっては
情感の無い街並みになってしまい、心豊かには暮らせません。
(余談ですが、ハウスメーカーの展示場やCMは
緑の中に家を配するので実際よりもやわらかく見えるはずです。)
情感論は別にしても、まことちゃんハウスの周りにはそれ相応量の緩衝帯が必要ですね。
まあそうすればそうしたで熱帯ジャングルみたいにしそうですけど・・・。(大蛇がいたりして)
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自分の家の外観はお隣の景観です。
つまり我々は景観の貸し借りをしていて、その延長線上に街並みがあるのです。
昔はもっと情感にあふれた街並みだったと思うのですが
落ち葉が迷惑だとか境界にブロックを積むとか言うのは、なんだか悲しい価値観ですね。
そろそろ日本の街並みも考えないと、不況から脱しても豊かさは得られないでしょう。
次回は景観について前向きにレポートしますので、もう一度お付き合いを。